黒潮丸のガーデン読書録

 

書名:世界の果ての庭 著者:西崎憲 出版社:新潮社
発行年月:0301 価格:1300円 頁数:
読んだ理由:題名に惹かれて
 
読んだ日:0302  
内容:

何とも奇妙な本である。たまたま図書館の新着コーナーにあり、「庭」の文字があったので借りてきた。

中味は小説であった。妙な小説であった。50幾つもの小さな章に別れ、場所も時制もあちこちに飛んで変な挿話が続く。
その中に庭に関する章が7つある。変な小説に付き合っているヒマはないので庭に関する章だけを拾い読みした。

これが意外にまじめな庭園論なのである。変な挿話の部分とはまるきり違っている。
この著者はどこかの大学院の英文学の講師だったとき、たまたま上司の助教授が病気になって代わりにイギリス留学をした。その研究テーマが「庭」だったという。
さすがに大学からの派遣だからちゃんと勉強したのだろう。
庭園の歴史など、中尾真理さんの「英国式庭園」とほぼ同じことをたった2ページに見事にまとめている。こちらは中尾さんの本で勉強して下地があるからその2ページがよく判る。

<庭の意味>
「庭」はどんな場だろうか。
「庭」は中間的な場である。「庭」は家でなく、外でもない。そして人が家から外に向かうために庭を通過する時、あるいは外から家へと向かうためい通過する時、人は通過者、つまりパッセンジャーになる。
通過者は曖昧な、中間的な、二項の間で決定不能性を具えた存在である。そして決定不能性が持つ快感がそのまま庭の快感なのである。どこにも属さない自由を通過者は庭で享受するのだ。
庭では人は不安を感じない。それは庭が家に隣接していていつでも家の中に避難出来るからだ。そして同時に社会というものにも隣接しているので、社会的帰属感が必要な時はいつでもそちらに避難出来る。

<庭と人間>
物事を認識するには、まず観念がなければだめなのだ。
風景を認識するためにはまず風景という観念がなければならなかった。クロード・グラスはつまり観念なのだ。舞台という観念がなくて、演劇があり得ただろうか。
ブラウンの非整形庭園は、枠という概念自体に疑義を呈したアヴァンギャルドな思想だった。

とにかく妙な本であった。自分では絶対に買わない本だ。
この本、日本ファンタジーノベル大賞を受賞したという。

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