内容:
わが家にあった「茶会記百選」(裏千家茶道教科15 淡交社)に、信長が津田宗及を招いた茶会記が出ていた。
天正2年(1574)2月3日 「天王寺屋会記」
堺衆であり本願寺門徒である津田宗及にとって、堺に矢銭を課し石山本願寺を攻めた信長は許せざる相手であった。しかし天下の趨勢に抗すべくなく、天正1年に京都での信長の茶会に列席、翌2年信長の本拠岐阜に参賀して、信長から茶会に招かれたのであった。
会記には道具類から料理に至るまで細かく記されているが、中に「紹鴎茄子」という名器がある。これはもと武野紹鴎の所蔵であったが、娘婿の宗及が預かり、信長に献じたものであった。これにより宗及は千石を拝領したという。その後再び信長から宗及に賜り、秀吉に献じられ、徳川秀忠、東本願寺、河村瑞軒などを経て鴻池家に伝来するという。
招かれたとはいえ茶をたてるのは宗及である。信長は宗及の点前を見ていて自らは服さず、宗及に賜って宗及が自服したという。
その後大層な饗応にあづかっている。
茶会記あるがゆえに、われらは今この光景を瞼に浮かべることが出来る。
「百選」の中には千利休、明智光秀、豊臣秀吉、小堀遠州、松平不昧などの名前も並ぶ。
毎度言う、茶に茶会記あり、花に立花図あり、何ゆえ庭に植栽図の文化なきや。
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